忘却の筺

彼女が自宅マンションに着いたのは、午後10時をまわっていた。
遅くなったなぁ、旦那はちゃんとご飯食べてるかな、全くあの上司のせいだ、
などと思いながらエレベータを待つ。
ホールには彼女以外、誰もいない。


やがてエレベータが着いた。
彼女が乗ると同時に、背の低い中年の男が乗り込んだ。
いつの間にいたのか・・・
彼女はその男に、何とも言えない違和感を覚えた。


彼女は利用階を押す。男は、ちらっとそれを
見やったような動きをして、黙っている。
同じ階で降りるようだ。


エレベータは昇り始める。
顔は深くかぶった帽子のせいで、見えない。
だがなんとなくあの嫌な上司に似ている、と思った。


彼女の降りる階に着く。
彼女は降りる。
男も続いて降りる。


カツ、カツ、カツ・・・
誰もいないマンションの廊下に響く、彼女のヒールの音は
闇に吸い込まれ、消えて行く。


ひた、ひた、ひた・・・
後から男の足音が聞こえる。男の靴は運動靴なのだろうか。
あまり派手な音はしない。
嫌な感じ。彼女はそう思った。


カツカツカツ・・・


ひたひたひた・・・


「・・・うじゃない・・・だ・・・」
男が何事か低い声で、つぶやいている。
彼女は思わず、足を早めた。


カツッカツッカツッカツッ・・・


ひたッひたッひたッひたッ・・・


男の足取りもなぜか早くなった気がする。


カッカッカッカッ・・・


たッたッたッたッ・・・


彼女は、ほとんど走っている!
そのまま角を曲がった!
その先が自宅である。
夫が待っているはずの自宅。
あなた、あなた助けて!!


そう思った瞬間


「あれッ?!ここ何階?!」


と、素っ頓狂な男の声が響いた。
彼女は、一瞬すくんだが、それでもゆっくり後を見ると
男が恥ずかしそうに、エレベータに戻っていくところだった。





彼女は自宅に戻ると叫んだ。


「降りる階、間違えてんじゃねぇーよっ!!」


彼女の夫は、その泣いてるのか、怒っているのか解らないような
彼女の表情を見て、首をかしげるしかなかった。


以上、ほぼ実話。